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福島地方裁判所相馬支部 昭和42年(ワ)23号 判決 1968年4月19日

原告 若狭孫一

<ほか六名>

右七名訴訟代理人弁護士 佐野国雄

被告 原町市

右代表者市長 山田貢

右訴訟代理人弁護士 渋佐寿平

主文

1  被告は、

①  原告若狭孫一に対し、金六三万三、八六一円および内金五四万四、二八四円に対する昭和四一年一〇月二五日から、内金三、八五〇円に対する同年同月二六日から、内金四、七〇五円に対する同年同月三一日から、内金八、一一七円に対する同年一一月二日から、内金二万二、九〇五円に対する同年同月一三日から、内金五万円に対する昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

②  原告若狭とのに対し、金五五万円および内金五〇万円に対する昭和四一年一〇月二五日から、内金五万円に対する昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

③  原告若狭フミに対し、金二五三万一、三二二円および内金二二二万二、三二二円に対する昭和四一年一〇月二五日から、内金九、〇〇〇円に対する同年同月三一日から、内金三〇万円に対する昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

④  原告若狭則雄、同若狭哲夫、同若狭不二男、同若狭恵子に対し、各金一二六万一、一六一円および各内金一一一万一、一六一円に対する昭和四一年一〇月二五日から、各内金一五万円に対する昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

の支払をせよ。

2  原告らのその余の請求は、いずれも棄却する。

3  訴訟費用は、これを一〇分し、その九を被告、他の一を原告らの各負担とする。

4  この判決は、第一項に限り仮りに執行することができる。

事実

第一、申立

一、原告七名

(一)  被告は、

1 原告若狭孫一に対し、金六三万八、七六一円および内金五八万八、七六一金に対する昭和四一年一〇月二五日から、内金五万円に対する昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

2 原告若狭とのに対し、金五五万円および内金五〇万円に対する昭和四一年一〇月二五日から、内金五万円に対する昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

3 原告若狭フミに対し、金三三八万〇、八二〇円および内金三〇八万〇、八二〇円に対する昭和四一年一〇月二五日から、内金三〇万円に対する昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

4 原告若狭則雄、若狭哲夫、若狭不二男、若狭恵子に対し、各金一六八万五、九一〇円および各内金一五三万五、九一〇円に対する昭和四一年一〇月二五日から、各内金一五万円に対する昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

の支払をせよ。

(二)  訴訟費用は、被告の負担とする。

との判決および仮執行の宣言を求める。

二、被告

(一)  原告らの請求は、いずれも棄却する。

(二)  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決を求める。

第二、請求の原因

一、転落事故の発生

訴外若狭弘一は、昭和四一年一〇月二三日午後八時四〇分ころ、同人所有の第一種原動機付自転車(原町市二七六号)(以下「原付自転車」という。)を運転して原町市大原字杉内八五番地の自宅に帰る途中、同市北新田字中川原一番地先新田川に架設された門前橋を北方植松方面から南方長野方面に向けて進行中、同橋南端の決壊流失した個所から前記原付自転車もろとも転落し、脳挫滅創(前頭骨、左側頭骨開放性骨折により脳露出)の瀕死の重傷を負い、同月二五日午前一時四五分ころ、同市本町一丁目一四一番地渡辺病院において死亡した(以下「本件事故」という。)。

二、被告の営造物管理責任

(一)  前記門前橋は、昭和三八年九月に竣工した全長七七メートル、巾員四・五メートル、橋台がコンクリート構造の木造橋で、原町市道を結ぶ路線として新田川に架設された被告原町市の管理する営造物である。

(二)  ところが、この門前橋は、昭和四一年六月二八日ころ、いわゆる四号台風による新田川の増水により、同橋の南端五・五メートルの部分が決かい流失し、その南側市道一〇数メートルの部分も同時に決かい流失した。その後、その南側市道が更に流失し、本件事故当時、すでに決かい流失していた部分は、落橋部分を含めて実に二四・二米に及んでいた。

(三)  本件事故当時、新田川の川床は露出し、いわゆる四号台風によって崩れ落ちた橋の南側足もとの護岸用コンクリート固めの大きな石塊が多く散在しており、橋の路面は川床から約五・六米の高所にあり、しかも橋が直角に切断された状態になっていたから、暗夜落橋を知らずに通行する者が転落して受傷し、死亡するであろうことは容易に考え得る状況にあった。

(四)  従って、被告は、営造物の管理者として、前記門前橋およびこれに接続する陸路(市道)が決かい流失した直後、その危険を防止するため、門前橋の両端に、通行者が容易に知り得るように、通行禁止の道路標識と柵を設けることはもち論、この危険防止の施設が現に存置しているかどうかを常に確認する等してその維持に努めるべきであった。

しかるに、本件事故当時、前記門前橋の両端およびその付近には、通行禁止の道路標識も柵もなく、危険信号の赤色燈も設置点燈されておらず、危険な状態のまま放置されていた。これは、営造物管理者としての被告に、その管理につき重大な瑕疵があったことが明らかであるから、被告は、若狭弘一の転落死亡から生じた全損害を賠償する義務がある。

三、損害

(一)  若狭弘一の損害とその相続

1 事故当時着用していた物の毀損による損害

(1) 若狭弘一は、本件事故当時、新品のジャンバー(金一、三〇〇円)、毛糸セーター(金一、一〇〇円)、Yシャツ(金一、〇〇〇円)、肌着(金三〇〇円)、ズボン(金一、〇〇〇)、ズボン下(金三〇〇円)、皮バンド(金三〇〇円)、靴下(金二〇〇円)を着用していたが、事故による受傷、多量の出血のため汚損し、または治療のためこれを切開破損し、使用不能になった。この損害計金五、五〇〇円

(2) 同人の着用していた腕時計一個が本件転落事故により破損し、その修理に金一、二〇〇円を要した。

2 原付自転車の破損による修理代相当の損害金二万七、九一〇円

3 入院中に使用した氷代四〇〇円

4 附添看護料・食費

(1) 原告孫一、同フミは、事故当日から弘一が死亡するまで徹夜で危篤状態の弘一に附添看護した。一人一日当り金八〇〇円の割合で二人二日分金三、二〇〇円

(2) この附添期間中に要した食費金一、〇〇〇円

5 得べかりし利益の喪失による損害

(1) 弘一は、本件事故当時、四二才(大正一三年一月一六日生)の極めて健康体の男子であったから、本件事故がなかったら、少くとも爾後二九・一〇年の余命(厚生大臣官房統計調査部第一〇回生命表参照)があったはずである。そして、同人は、幼少のころから終生の仕事として農林業に従事して来たものであるから、その仕事の性質上この余命年数だけ稼働して収入を得ることができるのであるが、同人の稼働可能年数を六四才九月までの二二年間にとどめ、その間の収入および生活費については、同人の仕事の性質と農業経営の家族構成上、事故前一年間における同人の収入および生活費を基準として、その得べかりし利益を算出するのが相当である。

(2) 弘一の本件事故前一年間(昭和四〇年一一月から同四一年一〇月までの間)における収入と生活費は次のとおりである。

イ 収入

(イ) 製炭による収入 金一三万一、一九六円

a 昭和四〇年一一月から同四一年五月まで製炭七三三俵のための稼働賃金は、金一六万九、二五〇円のところ、その製炭の必要経費五万三、三九一円(炭釜構築人夫賃金一万二、〇〇〇円、炭焼人夫賃金二万一、六〇〇円、炭俵費用金一万九、七九一円)を控除した金一一万五、八五九円

b 昭和四〇年一二月製炭による売上金二一俵金七、八七〇円、昭和四一年四月製炭による売上三三俵金一万〇、七二五円計金一万八、五九五円のところ、その必要経費金三、二五八円(炭焼人夫賃金一、八〇〇円、炭俵費用金一、四五八円)を控除した金一万五、三三七円

(ロ) パルプ用材の売上およびその生産に従事して得た収入金二五万八、八五六円

昭和四〇年一一から一年間に、パルプ用材の売上およびその生産に従事して得た賃金の合計金三五万〇、四五六円から必要経費金九万一、六〇〇円(小運搬人夫賃金二万円、立木払下受―二株分―代金二万一、〇〇〇円、同一株分金一万五、〇〇〇円、一年間の鋸機械滅耗、油代金三万円、五十嵐薪炭店工場着二八石運賃金五、六〇〇円合計九万一、六〇〇円)を控除した金二五万八、八五六円(この売上金のうち金二万六、〇二二円は、弘一が本件事故のため売却がおくれ、一一月初めと中ごろ近く売却したものを含む)

(ハ) 山林の下刈、植付作業に従事して得た賃金一一万〇、五五〇円

a 市有林 金三万五、七五〇円(二七人半、一日当金一、三〇〇円)

b 県行部分林 金五万七、二〇〇円(四四人、一日当金一、三〇〇円)

c 国有林 金一万〇、八〇〇円(九人、一日当金一、二〇〇円)

d 私有林 金六、八〇〇円(八・五人、一日当金八〇〇円)

(ニ) 農業による収入 金二万四、〇〇〇円

弘一は、農繁期三〇日間は少くとも農業に従事したが、これを賃金で算出することとし、一日当り金八〇〇円の割合による金二万四、〇〇〇円

(ホ) 前記農、林業以外の労働による収入 金一万九、三三九円

弘一は、昭和四一年九月中一六日間を食品工場で働いて賃金一万九、三三九円を得た。

(ヘ) 以上合計金五四万三、六一〇円(イの(イ)、(ロ)のうち金三三一円を放棄)

ロ 生活費

本件事故当時、原告孫一方では、弘一を含めて家族六人でその生活費は、別表第一のとおりであるから、一箇月平均金四万五、〇〇〇円未満(一人あたり金七、五〇〇円未満)であった。しかし、弘一については、一箇月金一万円として年間合計金一二万円とする。

(3) 従って、前記年間における弘一の純収益は、前記イからロを控除した金四二万三、六一〇円となる。

(4) 弘一のこの年間収益を基礎として今後二二年間に弘一の得べかりし利益として、一時に請求できる金額は、ホフマン式計算法によって年五分の中間利息を訴除した(計算は別表第二のとおり)金六一七万六、二五一円となる。

6 以上合計金六二一万五、四六一円

7 原告五名の相続

原告フミは、弘一の配偶者として弘一の前記合計金六二一万五、四六一円の損害賠償債権の三分の一である金二〇七万一、八二〇円を、原告則雄、同哲夫、同不二男、同恵子は、弘一の実子としてそれぞれ前記金額の六分の一である金一〇三万五、九一〇円を各相続した。

(二)  原告孫一の損害

原告孫一は、子の弘一が本件事故で入院し、死亡したため次の支出を余儀なくされ、同額の損害を被った。

1 弘一の入院医療費 金八、一一八円

2 弘一の会葬、追善供養等の費用金六万一、九一四円

(1) 葬儀費用 金二万三、〇六一円

(2) 火葬場使用料 金一、五〇〇円

(3) 御布施料 金一万円

(4) 弘一の会葬用写真引伸代 金二、七〇〇円

(5) 通夜、会葬の際客に振舞った清酒代等 金四、七〇五円

(6) 追善供養費 金一万三、七六五円

(7) 雑費 金六、一八三円

3 通信費 金九、五八〇円

(1) 会葬礼状印刷代 金三、八五〇円

(2) 同送料 金四、九〇〇円

(3) 遠方に居住する近親者(弘一の弟妹、原告則雄ら六名)に対する弘一危篤、死亡の電報代 金八四〇円

4 交通費 金九、一四〇円

別表第三記載のとおり

5 以上合計金八万八、七六一円

(三)  原告フミの損害

原告フミは、本件事故により弘一の会葬および追善供養のため、白米糯米六斗(金九、〇〇〇円相当)の消費支出を余儀なくされ、同額の損害を被った。

(四)  原告七名の慰謝料

1 原告孫一、同との

原告孫一、同とのは弘一の実父母であり、もともと弘一と生活を共にして来たものであるが、原告孫一は、事故当時、原町林業事務所を退職して半年経過したばかりで、既に七〇才となり、原告とのも六五才に達し、両名とも、年とともに長男である弘一を杖とも柱とも頼みにし、弘一も同原告らの老後の一切の面倒を見てくれていた親孝行者であった。従って、同原告らは、余生を楽しく過ごせるものと明るい希望を抱いていたところ、本件事故による弘一の死亡により、その希望は一瞬にして失われてしまった。老後を思えば暗たんとし筆舌に尽し難いものが多く、その精神的苦痛は極めて甚大である。この原告孫一、同とのの精神的苦痛は金銭をもってしては慰謝し得ないものであるが、金銭をもってすれば、その額は各自金五〇万円が相当である。

2 原告フミ

原告フミは、昭和二四年一一月七日、農林業に従事している弘一と婚姻し、爾来同人を助けて農業に励み、人も羡む家庭生活を営み、原告哲夫、不二男、恵子の三子をもうけ、今日まで身を粉にして弘一とともに働いて来たものである。そして、その苦労もこれから実を結ぶものと楽しみにし希望に燃えていた矢先、日ごろ壮健な弘一が本件事故に遇い、懸命に附添看護した甲斐もなく最愛の夫を失い、呆然自失なすところを知らず、その精神上、肉体上被った苦痛は、癒すに途なく、事故当時三七才という若さの同原告にとっては、将来を思うにつけ、日々悲嘆の生活を送っている状態である。従って、その慰謝料としては、金一〇〇万円が相当である。

3 原告則雄(事故当時一七才)、同哲夫(同一六才)、同不二男(同一三才)、同恵子(同一〇才)は、いずれも弘一の実子で、一朝にして一家の大黒柱にして最愛の父を失った悲しみは、想像に絶するものがあり、その慰謝料としては各自金五〇万円が相当である。

(五)  弁護士費用

原告七名は、被告に対し、弘一の転落による死亡事故に関し、損害賠償の請求をしたが、被告はこれに応じないため、止むなく本訴を提起することとして、昭和四二年四月二日、仙台弁護士会所属弁護士佐野国男に対し、被告を相手方とする本訴の提起を委任した。そして、その費用は、仙台弁護士会報酬規則に定める標準に従うことになったが、特に、本件に関しては、その手数料を前記報酬規則に定める標準価額の半額、謝金は第一審判決認容額の一割とし、いずれも第一審判決言渡の日に支払う旨約した。

原告七名が前記佐野国男弁護士に対し支払うべき報酬は、被告において負担すべきものであるから、原告らは、各自被告に対し、別表第四の費用の内金を請求する。

四、原告らの請求

よって、被告に対し、

(一)  原告孫一は、第三項(二)、(四)の1および(五)の内金五万円の合計金六三万八、七六一円および内金五八万八、七六一円に対する本件事故後である昭和四一年一〇月二五日から、内金五万円(弁護士費用内金)に対する請求の日の翌日である昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金

(二)  原告とのは、第三項(四)の1、(五)の内金五万円の合計金五五万円および内金五〇万円に対する昭和四一年一〇月二五日から、内金五万円に対する請求の日の翌日である昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金

(三)  原告フミは、第三項(一)の7、(三)、(四)の2および(五)の内金三〇万円の合計金三三八万〇、八二〇円および内金三〇八万〇、八二〇円に対する本件事故後である昭和四一年一〇月二五日から、内金三〇万円に対する請求の日の翌日である昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による金員

(四)  原告則雄、同哲夫、同不二男、同恵子は、各自第三項(一)の7、(四)の3、(五)の内金一五万円の合計金一六八万五、九一〇円および内金一五三万五、九一〇円に対する本件事故後である昭和四一年一〇月二五日から、内金一五万に対する請求の日の翌日である昭和四二年一一月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める。

第三、答弁

一、認否

(一)  請求原因事実第一項は認める。

(二)  同第二項(一)は認める。(二)のうち、門前橋が昭和四一年六月末ころ、いわゆる四号台風によってその南端部分が流失したことは認める。(四)のうち被告が交通禁止の道路標識を設置すべきであったことは認めるが、その余は否認する。

(三)  同第三項(一)の1から4までの損害は否認する。5の(1)のうち、弘一の年令、余命年数と稼働可能年数は認めるが、その余は否認する。5の(2)から(4)までを否認する。7のうち、原告フミ、同則雄、同哲夫、同不二男、同恵子と弘一との身分関係は認めるが、その余は否認する。(二)のうち、原告孫一と弘一との身分関係は認めるが、その余は知らない。(三)は知らない。(四)のうち、原告七名と弘一との身分関係および年令は認める、慰謝料額は争う、その余は知らない。

二、主張

(一)  門前橋の一部流失と被告のとった措置

門前橋は、昭和四一年六月二八日、いわゆる四号台風により一部決かい流失したので、被告は、翌二九日朝、①同橋へ通ずる市道(北新田・北長野線)が田畑の中の一本道で他に迂回路がないところから、同橋の東北方約二粁の国道からの進入口と同橋の南方約一粁の県道からの進入口に、縦長の木板に「門前橋落橋のため通行止 原町市」と黒書した交通止標識を設置し、②門前橋の両端に木造の交通止柵を構築し、③この交通止柵の両手前約二〇米の市道中央に竹柵と交通止標識を設け、④原町警察署長と原町消防署長に対し、電話で交通止処分をしたことを通知し(同年七月五日、これを正式文書で通知し)た。

その後、被告は、通行者の便を図るため、同年七月一〇日、門前橋付近に巾員約六〇糎の木造仮橋を設けるとともに、前記③の竹柵と標識を除去し、同年九月三〇日、この仮橋の巾員を九〇糎に拡張するとともに、前記②の交通止柵を補強した。その後も、被告は、常傭道路監視員をして前記仮橋の管理と交通止柵の保持にあたらせたことはもち論である。

(二)  落橋後の門前橋の対する被告の営造物管理義務の存否

前記のとおり、被告は、門前橋の一部流失後直ちに同橋の交通止処分をしたのであるから、一般通行者は、同橋梁が完全に修復され、交通止処分が解除されるまでは同橋梁を利用し通行することは禁止され、被告が同橋梁に対して負担していた営造物管理義務は、災害復旧事業の施行義務を除き、すべて前記仮橋に移り、一部流失後の門前橋には存在しなかったと解すべきである。けだし、災害復旧事業が竣工し、交通止処分が解除されるまでは、門前橋は営造物としての効用を停止された「橋梁の残骸」にすぎず、被告にはその旨を公示する義務だけが残存したと解すべきだからである。前記交通止柵と交通止標識の設置は、営造物の効用を停止した旨の公示手段にすぎない。

ちなみに、被告は、門前橋の一部流失後、公共土木施設災害復旧事業として、同橋梁を再び交通の用に供し得るように、直ちに行政上、財政上必要な手続をとり、その早期実現に努力した。

(三)  営造物の管理行為と管理者の責任の限界

1 公物、営造物の管理行為の本質は、積極的には公物、営造物の目的を達成させるための権利義務の一切であり、消極的には公物、営造物の目的の障害を除去するためにする権利義務の一切を指し、それ以外のものを含まない。従って、国家賠償法にいわゆる「営造物の管理上の瑕疵」という観念も、その実質は、前記のような営造物の目的を積極的に達成する作用と消極的に障害を排除する作用とに瑕疵があった場合をいうのであって、本件におけるように、管理者の明示の意思的行為によってその効用を停止された場合には、前記営造物の管理の瑕疵という観念を容れる余地はないものというべきである。

2 道路、橋梁の管理の瑕疵により通行者が損害を受けた場合に、その管理者に損害賠償責任を肯定した従来の裁判例は、瑕疵のある道路、橋梁をそのまま通行の用に供していた点にその責任を認めているのであって、橋梁をその形態的要素の一部滅失により法律上有効に営造物としての効用を停止した後、その物件上において発生した本件事故は、その基礎となる事実および法律関係を異にするものであるから、被告には損害賠償の責任は存しない。

(四)  本件事故は、弘一の重大な過失によって惹起された自損行為である。

1 門前橋は、主として、原町市上新田部落のうち川北約二〇戸の住民が、北長野方面への連絡、通学に使用する旧字道の一部であって、交通量の極めて少いところである。従って、被告として執るべき措置は、前記交通止柵と交通禁止標識の設置および前記原町警察署長、同消防署長への通知で十分である。ただ、被告としては、それ以上に前記のとおり前記交通止の柵と標識の維持に努めて来たのである。

2 門前橋落橋の事実は、前記二九日朝、有線放送で周知徹底されているばかりでなく、前記交通止柵の構築作業にはその付近全部落の協力があったので、これらの部落とその関係者には周知されていたのである。そして、門前橋に程遠くない北新田部落には、弘一の妻原告フミの実家である訴外大和田ハナ子方があり、弘一は、門前橋の一部流失後、屡々同家を訪れていたから、当然同橋が通行できないことを知悉していた。

3 ところが、門前橋が交通止になっていることを知った若い一組の男女が、たまたま、本件事故直前に同橋に通行者のないのを利用して密会すべく、同橋北端に設置されていた通行止柵を不法に排除して軽四輪車を同橋上に進入、停車させていた。

4 そして、本件事故当夜は、月令九月一〇日で快晴であったから、視界は極めて良好であった。しかるに、弘一は、飲酒酩酊して車を運転し、前記国道からの進入口に設置されていた通行止標識を見落して門前橋に差しかかったところ、前記同橋上に駐車している軽四輪車を見て同橋に車を乗り入れたものと推察される。

弘一としては、通常の通行人としての注意すなわち、飲酒酩酊運転をしなければ、同橋が未だ復旧されていないことを知り得る状態にあったのにかかわらず、飲酒酩酊していたため、同橋が通行止になっていることを忘却し、同橋上の軽四輪車に気をとられ前方注視義務を怠ったため同橋の一部流失した部分から川床に転落したのである。

5 以上のところから、本件事故の実態を考えれば、本件事故は、一組の若い男女の通行止柵排除による軽四輪車の門前橋乗り入れ駐車に誘発され、弘一の飲酒酩酊運転という重大な過失によって惹起された自損行為というべきである。従って、被告には、損害賠償の責任は存しない。

(五)  弘一の逸失利益の算定方法に関する反論

仮りに、被告の門前橋管理に瑕疵があり、この瑕疵と本件事故との間に因果関係があるとしても、弘一の逸失利益の算定基準に関する原告の主張は不当である。

(1) 若狭弘一は、妻原告フミ、三男原告不二男、長女原告恵子、母同とのらの家族と共同生活をして来たものであり、ほぼ〇・九五ヘクタールの田畑を耕作する小規模の農家であって、その収入はいわゆる山仕事等の農業外収入に対する依存度の高い普通の農家の主人である。原告らは、弘一が妻原告フミとは別個の独立した林業経営者、日傭労務者のように主張するが、これは事実を意識的に歪曲するものである。

(2) 自家所有の山林を有しない農民の木炭およびパルプ材の売上収入は、いわゆる「山仕事」といわれる木炭焼き仕事またはパルプ材伐採作業の労働賃金と大差がなく、このいわゆる山仕事も家族らの協力がなくては到底成り立ち得ないものであることは世間一般の常識である。この家族労働量の比率を考慮しない原告らの主張は不当である。

(3) 国有林の払い下げを受けるいわゆる株は、弘一の死亡によって失われるものではない。そして、このいわゆる株は、国有林に対する相当の労力負担を前提とするもので、経済的には著るしく有利なものであるところから、正式にはその譲渡が禁止されているものである。しかし、特段の事情によっては、このいわゆる株を他に譲渡することも行われているようであるが、その際の譲渡価額が相当高額になることも避け難い経済的な要請である。従って、国有林の払い下げを受けた者からそのいわゆる株を更に譲り受けることは、将来とも安定して期待することはできないから、原告ら主張の弘一の逸失利益額算定の基礎からこれを除外すべきである。

第四、被告の主張に対する原告の反論

一、被告の主張(一)について

被告が、縦長の木板に「門前橋落橋のため通行止 原町市」と墨書した立札を設置したという旧国道から本件市道への進入口が門前橋から東北方約二粁のところであり、県道から本件市道への進入口が同橋から南約一粁のところにあることは原告主張のとおりである。しかし、本件事故当時、原町警察署の調査によれば、新田橋(旧国道の一部)たもとの旧国道から本件市道へ入る場所に設置されていた立札は、道路の端から離れたゴミ捨場に斜めに立てられており、県道から本件市道への入口付近に設けられていた立札は、同所の電柱に打ちつけられてあったのであって、夜間はとてもこれを容易に知ることのできない状態にあった。被告は、本件事故発生後の昭和四二年二月二四日に、はじめて前記立札を打ちつけた電柱に外燈を設置したのみで、国道よりの進入口付近には、夜間、立札を容易に知り得るような措置はなんらとられていなかったのである。

また、被告は、門前橋落橋後、直ちに、その両端に通行止柵を、その各約二〇米手前の市道中央に竹柵と交通止標識をそれぞれ設置したというが、後者は、すでに、本件事故発生前に撤去されていたことは被告の自認するとおりであり、前者は、本件事故発生の相当以前に存在しなかったのである。このことは、本件事故発生の一週間前の夜、門前橋の一部落橋を知らずに、新田橋たもとの国道から門前橋を通るため自動車を乗り入れた者が、その前照燈によって前方の崖を発見して門前橋の一部落橋を知り、あわてて急停車の措置をとり、自動車の前部バンバーを落橋部分に突き出した状態で停車し、危うく一命を拾ったことがあることに徴して明らかである。

二、被告の主張(二)、(三)について

(一)  道路法が、営造物である橋梁を含む「道路の管理」というのは、道路管理者が一般交通の用に供するため、公共用施設としての道路本来の機能を発揮させるためにする一切の作用を指称するのであって、その対象である道路の状況に応じ、道路が通常の場合に除草、除雪、砂利の補充等常時反覆して行われるような保存行為をすることはもち論、道路に損傷を生じた場合に、その構造を保持し、回復する工事をすることも、また本件におけるように災害によって道路が損傷した場合に通行の制限、禁止等をすることも、はたまた、原形に復旧させることを目的とする行為も、更には、交通禁止解除の処分をすることも、すべて営造物管理行為である。被告の主張する仮橋の設置、災害復旧事業施行義務による行為のいずれも、営造物の管理行為なのである。従って、被告は、本件門前橋に対してはもち論、その設置したという仮橋に対しても、営造物管理の義務があるのであって、これらを無管理の状態に放置することは断じて許されない。被告が、本件門前橋に対して負担していた管理義務が、災害復旧事業施行義務を除き一切が仮橋に移り、災害復旧事業終了後交通禁止処分を解除するまでは、一部流失した旧橋梁にはなんの管理義務も負わないとか、被告の行った交通禁止処分が旧橋梁に対する管理権の停止を意味するという被告の主張は、いずれも独断といわなければならない。

(二)  被告は、門前橋が被告の明示の意思的行為によってその効用を停止(交通禁止処分の意味であろう)された場合には、国家賠償法にいう「営造物の管理の瑕疵」という観念を容れる余地はないと主張するが、この見解も独断である。本件の場合には、損害発生の時点において、門前橋の一部流失という交通の極めて危険な状態が作出された後の営造物に対する被告の管理に瑕疵があったかどうかが問題なのである。道路(橋梁を含む)の管理の瑕疵による道路管理者の損害賠償責任は、被告のいう瑕疵ある道路、橋梁をそのまま通行の用に供していた場合はもち論具体的に交通止の措置を講じてあった場合でも、それが不完全であるときは、その管理に瑕疵があるとして問題とされるのである。

(三)  道路法第四五条第一項によれば、道路管理者は、道路の構造の保全等を図るため必要な場所に道路標識を設けなければならないとされている。この道路標識は、道路交通法第九条第三項のそれと同じく、総理府・建設省共同省令「道路標識、区画線および道路表示に関する命令」の定めに依拠すべきこととされており(道路法第四五条第二項)、その第四条によれば、規制標識のうち「通行止」を表示するものは、道路管理者が設置すべきものとされ、道路法第四八条第一項によれば、道路管理者は通行禁止をする場合においては、禁止の対象・区間・期間および理由を明瞭に記載した道路標識を設けなければならないとされている。そして、その設置場所は、歩行者、車輛等の通行を禁止する区間の前面における道路の中央とされているのである。

また、道路法施行令第一五条第五号によれば、道路工事の実施方法として、夜間は赤色燈を設け、その他交通の危険防止のために必要な措置を講ずべきこととされている。これは、道路工事が、一般に交通の危険があると考えられるためであって、交通の危険度の増大する事態によってはその防止の措置は、より効果的にすることを要請されるのである。この道路法施行令の規定は、本件のように一部流失した橋梁の場合にもその趣旨を及ぼすのが当然である。

しかるに、被告は、本件事故発生の前後を通じ、本件門前橋が交通上危険な状態にあったのにかかわらず、このような赤色燈の設置点燈はもち論、事故防止に充分な防護柵を設置し維持しなかったのであって、この点において、被告には一部流失後の門前橋の管理に瑕疵があった。このような被告の怠慢こそ本件事故発生の唯一の原因なのである。

三、被告の主張(四)について

(一)  門前橋は交通量の多いところである。

交通止の柵と標識に関する主張は前記のとおりである。

(二)  若狭弘一は、門前橋の一部流失していたことを知らなかった。

同人の妻原告フミの実家である大和田ハナ子方が原町市北新田部落(門前橋から約二粁はなれた新田橋の近く)にあることは、被告主張のとおりであるが、同人は、本件事故の約五箇月前である昭和四一年五月二七日、前記大和田方へ田植の手伝いに行ったことがあるだけで、その後は山仕事が多忙であったので大和田方へ行ったことはない。しかも、弘一の家は、北新田部落よりはるか遠方にあるばかりでなく、同人のした山仕事は同人方の西方で北新田部落とは反対の方角にあたる場所においてされたものである。従って、弘一は、門前橋の一部決かい流失を知る由もなかったのである。

(三)  本件事故直前に、一組の若い男女が軽四輪車で門前橋を渡ろうとして進入したことは被告の主張するとおりであるが、当時、門前橋の北端には通行止柵がなかったことは前記のとおりであるから、この男女がこれを排除する余地はなかった。被告の主張は、本件事故の責任をこの男女に転嫁するも甚だしい妄論である。

(四)  本件事故当夜は、月令九月一〇日であったことは被告の主張するとおりである。しかし、当夜は暗かったばかりでなく、事故当時、門前橋付近にはガスがかかっていたから視界は極めて悪かった。しかも、弘一が事故当時に飲酒酩酊していたとする被告の主張は単なる憶測にしかすぎない。むしろ、本件事故発生直後に現場へ救助に行った付近の部落民および警察官らによって、弘一は飲酒していなかったことが確認されていたのである。弘一は生前一度も交通事故を起したことがなく、前記のとおり、事故当夜は暗く、しかもガスがかかっていたので、慎重に運転していたものである。

(五)  要するに、被告の主張は、自己の営造物管理の瑕疵を第三者または被害者弘一に転嫁することによって、その責任を回避するための弁解にすぎない。

証拠≪省略≫

理由

一、請求原因第一項と第二項(一)の事実は、当事者間に争いがない。

二、門前橋が、昭和四一年六月二八日、いわゆる四号台風による新田川の増水によりその南端部分(≪証拠省略≫によれば、その部分が五・六メートルであることが認められる。)が決壊流失したことは当事者間に争いがなく、本件事故発生当時、同橋の流失部分が未だ復旧されず、流失部分付近は川床が露出し、前記台風により崩れ落ちた同川南岸の護岸用コンクリート固めの石塊が多く散在し、その残存部分の路面が川床から五・六メートルの高所にあったことは、被告の明らかに争わないところである。

三、そこで、本件事故当時、道路管理者である被告原町市の市道の一部である門前橋の管理に瑕疵があったかどうかについて検討する。

≪証拠省略≫を総合すると、次の事実が認められる。

(一)、門前橋の一部決壊流失した日の翌二九日朝、被告が、原町警察署と原町消防署に対し、門前橋を通行止にした旨電話で連絡したこと

(二)、門前橋の北東部に隣接する新田川流域の原町市北新田部落の住民訴外赤川利雄の要請により、同日、同部落全戸に対し、門前橋が落橋した旨有線放送で知らされたこと

(三)、門前橋を通る道路としては、同橋の南方をほぼ東南から北西に走る県道原町・川俣線からほぼ北東に向けて入り、門前橋(この間約一、〇〇〇メートルであることは当事者間に争いがない)を経て、同橋の下流約一、六〇〇メートルの新田川に架設された新田橋を通ってほぼ南北に走る旧六号国道の新田橋たもとに至る(この間約二、〇〇〇メートルであることは当事者間に争いがない)巾員四メートル位の市道と、この市道の門前橋北方約一〇〇メートルの地点から左折し同橋の北方約四〇〇メートルのところをほぼ東南から北西に走り、前記国道と交差する道路に至る(この間約三〇〇メートル)市道があるところ、被告は、同日、常傭道路監視員をして、「門前橋落橋のため通行止 原町市」と墨書した巾六寸くらい、長さ六尺くらいの木札を、前記県道からの市道入口の右側角にある電柱に釘で打ちつけ、前記国道の新田橋たもとからの市道入口左側のゴミ捨て場付近にほぼ北東に向けて立てたこと

(四)、同日朝、前記北新田部落民約二〇名が、自主的に、門前橋の北端から約二〇―三〇メートルの道路上に竹のバリケードと通行止の立札を設けて部落民の注意を喚起したこと

(五)、その後、北新田部落民は、被告原町市当局に対し通学児童のために新田川に仮橋を架設することを要請したところ、新田川の減水をまって、昭和四一年七月九日、一〇日の両日、被告は、同部落の訴外伊賀保外一一名の稼働を得て門前橋の上流約一〇〇メートルぐらいのところに、巾約〇・六メートル、長さ約一八メートルの木造仮橋を設けた(この際、前記(四)の竹のバリケードと立札は除去された)。しかし、この仮橋に至る特別の道路は設けられず、これを利用するには、門前橋の北端付近から堤防を経て、これをおりて行くほかはなく、従って、同橋北端付近には迂回路の表示もされなかったこと

(六)、この仮橋設置作業終了後、稼働した北新田部落民から誰いうとなく門前橋の両端にバリケードを作らないと危いということになって、被告原町市の常傭道路監視員遠藤誠もこれに同調し、同人の指示に従い、前記北新田部落民らによって、仮橋工事の残材である一寸二分角のたる木一本を門前橋北端の市道中央部に支柱として打ち込み、丸太二本をそれぞれ同橋の一メートル高さのらん干にのせて支柱とらん干に針金でゆわえつけた程度の柵を構築したが、その支柱は、土が固く、支柱の先端を削らなかったこともあって土中に充分打ち込まれなかったところから、この柵は触るとぐらつくようなものであったこと

(七)、その後、同月二〇日ころ、降雨による新田川の増水により前記仮橋が流失したので、同月二七日、再び北新田部落民訴外赤川利雄外七名の稼働をえて前記場所に前記同様の仮橋を設け、その際、前記柵を前記同様に作り直したこと

(八)、次いで、同年九月一三日、前記部落の訴外野地政雄から仮橋の巾員拡張方陳情をうけて、同年九月三〇日、前記赤川利雄外二名の稼働をえて前記仮橋の巾員を〇・九メートルに拡張し、この際も前記柵を補修したが、従前よりも特に強固になったものではないこと

(九)、前記柵は、その後、しばしば損壊されていたので、前記部落民によって、丸太をらん干に立てかけて交通の障害になるようにされていたが、それもいつの間にか道路に平行に片付けられてしまい、原町市本町に居住する訴外小林修造が、同年一〇月中旬ころの日曜日の暮ころ、商用で北長野へ赴くため自動車を運転して新田橋たもとの旧国道から前記市道を通り、門前橋へ進入したところ、落橋部分の直前で前照燈の照射により前方対岸を発見して急停車し、転落を免れたことがあったこと

(十)、門前橋の南北両端には、同橋の一部流失後本件事故発生時まで、交通禁止の道路標識は、全然設けられず、本件事故発生後、ようやく同橋の北端から北方三〇メートル位の道路西側に交通禁止(赤印)の道路標識が設けられたこと

(十一)、門前橋の一部流失後、本件事故発生時まで危険表示の赤色燈が設置点燈された形跡がないこと

以上の事実を認めることができる。≪証拠判断省略≫

以上認定の事実からすると、被告は、門前橋の一部決壊流失後、同橋付近にはもち論、前記国道、県道等からの進入口付近にも、道路法第四八条所定の禁止の対象、区間および理由を明瞭に記載した道路標識を設けることなく、ただ「門前橋落橋のため通行止 原町市」と墨書した巾六寸位、長さ六尺位の木札を前記国道と県道からの市道入口に設けただけである。そして、これらは、設置されてから四箇月近く経過した本件事故発生当時には、風雨にさらされて木肌が変色し、昼間はともかく夜間は容易にこれを認知し得る状況にはなかったものと推認される。そして、門前橋北端には、前記、(六)、(七)、(八)程度の簡単なバリケードを設置したものの、これは、しばしば損壊されていたのであるから被告は、現場を巡回して、バリケードが現に存するかどうかを確認すべきであったのに、これをしなかったため、本件事故発生の約一週間位前には、その形骸すら残さない状態になっていた。しかるに、被告はこれに気付かず放置していたものである。もち論、門前橋付近には危険表示の赤色燈が設置点燈されていなかった。このような状況のもとでは、被告の市道の一部である門前橋の交通の危険を防止する措置としては不完全であったものと断ずるほかはないから、その営造物管理義務懈怠の責は免れ得ない。

四、被告は、門前橋の一部決壊流失後、直ちに交通禁止処分をし、仮橋を設置したから同橋に対する被告の営造物管理義務は、この仮橋に移り、門前橋に対してはその管理義務は存しなかった旨主張する。しかし、被告の交通禁止処分は、前説示のとおり不完全であったばかりでなく、門前橋が営造物として廃止されたものでないことはもち論であるから仮橋設置の一事をもって門前橋に対する被告の営造物管理の責任が消滅するいわれはない。被告のこの主張は到底採用できない。

被告は、また、国家賠償法にいう営造物管理の瑕疵という観念は、いわゆる営造物法にいう「管理」と同じく営造物の目的を積極的に達成する作用と消極的にその目的達成の障害を排除する作用とに瑕疵のある場合をいうのであって、本件のように管理者たる被告の明示の意思的行為によってその効用を停止された場合には前記観念を容れる余地はない旨主張する。しかし、国家賠償法第二条第一項のいわゆる営造物責任は、もともと公権力行使の関係ではなく、私法上の責任と考えられていたのであって、民法第七一七条と同様いわゆる危険責任の原理を明確にしたもので、ただ土地の工作物の権利主体が国または地方公共団体であるか私人であるかによってその適用法文を異にするにすぎないものと解することができるから、国家賠償法第二条第一項にいう営造物管理の瑕疵とは、営造物が通常備えるべき安全性に欠けている場合を指称し、その安全性を欠くに至った原因の如何を問わず、その安全性を欠いた危険のある状態をそのまま放置しておく場合はもち論、危険防止の措置をとったがそれが不完全である場合も含むものと解するのが相当である。被告のこの主張も採用の限りでない。

五、そこで、被告の市道(橋梁)管理の瑕疵と本件事故発生との間に因果関係があるかどうかについて検討する。

(一)、本件事故当夜は、月令九月一〇日であったことは当事者間に争いがないが、≪証拠省略≫によれば、本件事故発生当時、天候は曇で、事故現場付近には濃いぐらいの靄がかかっており、側まで行かないと誰か見定めることができない位暗かったものであることが認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(二)、≪証拠省略≫によれば、本件事故当時の路面は、落橋部分の北方約二〇メートル位のところで、北方からみて右側部が約一〇センチメートル位ゆるく窪み、その左側部が約五〇センチメートル位窪んでいたことが認められ、この認定に反する証拠は存しない。

(三)、前認定の門前橋の一部決壊流失した翌二九日朝、同橋の北東部に接続する北新田部落に対し有線放送で同橋が落橋したため通行止になった旨放送された事実に当事者間に争いのない原告若狭フミの生家である訴外大和田ハナ子方が同部落にあることおよび≪証拠省略≫によって認め得る門前橋一部流失の事実が当時新聞で報道されたことをつき合わせて考えると、原町市大原(≪証拠省略≫によれば、門前橋から公道経由約五、五〇〇メートルのところ)に居住する若狭弘一が落橋直後ころ、同橋が通行できないものであることを知っていたものと推認するに難くない。

四、≪証拠省略≫によれば、若狭弘一の乗車した原付自転車は、本件事故の四年位前に同人が新車として購入したもので、その前照燈はスピードを出すほどよくその照明力を発揮する型のものであったことが認められる。

(五)、≪証拠省略≫によれば、弘一は、本件事故前夜、妻原告フミに対し、「明日は山の払下げが終ったら、伊賀敏宅へ哲夫(長男)の就職のことで顔を出してくる。栄(原告フミの弟大和田栄)のところへも寄ってくる。」旨言っていたことおよび本件事故前に訴外大和田栄が交通事故で受傷していたものであることが認められる。

(六)、≪証拠省略≫を総合すると、弘一が、さきに訴外島田矩男を介して原町市本町三丁目五八番地の同市議会副議長伊賀敏に対し、長男哲夫の就職の斡旋を依頼していたところから、事故当日の午後五時三〇分ころ、同人方を訪れ、同人に対し、同市内の村木光工株式会社に就職できるよう特に依頼し、午後六時ころ、同人方を辞去したものであることが認められる。

(七)、≪証拠省略≫によれば、訴外早川忠夫、大和田祝江の両名は婚約者同志であって、本件事故直前に、ドライブのため、前記大和田ハナ子方から軽四輪車で門前橋へ差しかかったところ、同橋北端にはバリケードも通行禁止の道路標識もなかったので(この点につき、被告は、一組の若い男女が同橋北端にあったバリケードを排除した旨主張するが、これが甚だしい暴論であることは、前記認定のところから明らかであろう。)、同橋へ車を乗り入れ進行したところ、落橋部分の約二〇米位手前の左側の窪んだところを超えたところで前方の落橋部分を発見し停車した。その後、バックしようとしていたところへ、後方から、後で判った弘一運転の原付自転車が余り明るくない前照燈で進行して来たが、言葉をかける暇もなく同人らの右側を通って、同橋の落橋部分から転落したものであることが認められる。≪証拠判断省略≫

以上認定の事実に前記認定の諸事実をつき合わせて考えると、若狭弘一は、事故当日の午後六時ころ、原町市本町三丁目五八番地の伊賀敏方を出て、訴外大和田栄方へ立ち寄り、前記新田橋たもとの国道から入る市道か、あるいは、門前橋の北方約四〇〇メートルの道路から入る市道を通って、本件門前橋へ差しかかったところ、同橋の北端にはバリケードも交通禁止の道路標識も赤色燈もなく、かえって、前記軽四輪車が同橋上に停車しているのをみて、同橋が復旧したものと誤解して同橋へ乗り入れ、同橋付近は濃い位の靄がかかり暗夜であったことと同人の運転した原付自転車が速度も余り出ていないため前方の照射が十分でなく落橋部分を発見できないままあるいは、発見してもなんの措置も採り得ずに転落したものと推認することができ、この認定を左右する証拠は存しない。

被告は、本件事故は、弘一の飲酒酩酊および前方不注視という重大な過失によって惹起された自損行為である旨主張する。しかし、前方不注視については、前認定のところから明らかなようにこれを肯認できないし、飲酒酩酊については、証人渡辺裕一(医師)の証言中「最初に来た四〇才位の女の人が、『飲んでいるからバイクに乗らないで帰ればいいのに』といっていた。」旨の供述があるが、証人大和田ハナ子の証言中「渡辺病院に最初に行ったのは自分である。医師と看護婦に、飲んでいるのかどうかと尋ねたら、両名から『飲んでいないようだから、本人の口を嗅いでみなさい』といわれた。嗅いでみたけれども酒の臭いはしなかった。」旨の供述および≪証拠省略≫に照らし、にわかに採用できない。また、≪証拠省略≫中「大和田ハナ子は、弘一が、五十嵐のところで酒を飲んだようだ、といっていた。」旨の供述があるけれども、≪証拠省略≫に照らし、たやすく採用することもできない。もっとも、≪証拠省略≫によれば、弘一が、平常飲酒を好んでいたことを肯認できるけれども、この一事をもって、本件事故当時、弘一が飲酒酩酊していたものと即断することはできない。ほかに被告主張の事実を肯認するに充分な証拠は存しない。

してみれば、本件事故が、弘一の自損行為であるといい得ないことはもち論であり、弘一が、門前橋へ差しかかった際、通常人の注意をもってしても、同橋付近には、バリケードも通行禁止の道路標識、赤色燈の点燈もなかったところから、同橋が復旧したものと信じて進行したとしても、けだし無理からぬことであるから、同人の転落死亡と本件市道管理の瑕疵との間に因果関係の存在を否定することはできない。

六、よって、進んで損害額について検討する。

(一)、若狭弘一の損害

1、同人が事故当時着用していた物の毀損による損害

(1)、≪証拠省略≫によれば、請求原因第三項(一)1の(1)の事実(着用衣類等の損害金五、五〇〇円)を認めることができる。

(2)、≪証拠省略≫によれば、請求原因第三項(一)1の(2)の事実(腕時計の修理代相当の損害金一、二〇〇円)を認めることができる。

2、原付自転車の修理代相当の損害

≪証拠省略≫によると、請求原因第三項(一)の2の事実(原付自転車の修理代相当の損害金二万七、九一〇円)を認めることができる。

3、弘一の入院中の氷代相当の損害

≪証拠省略≫によれば、請求原因第三項(一)の3の事実(氷代金四〇〇円相当の損害)を認めることができる。

4、付添看護料・食費相当の損害

(1)、請求原因第三項(一)の4(1)の事実は、主張自体理由がない。この事実は、むしろ、原告孫一、フミの慰謝料額の算定に際しこれを考慮すれば足りる。

(2)、≪証拠省略≫によれば、請求原因第三項(一)4(2)の事実(食費金一、〇〇〇円相当の損害)を認めることができる。

5、得べかりし利益の喪失による損害

≪証拠省略≫を総合すると、若狭弘一は、昭和二四年に原告フミと婚姻して以来、田四反歩、畑三反歩の耕作を、主として、妻原告フミにさせ、みずからは、主として、国有林、県有林および市有林等の植え付け、下刈り作業および国有林から払い下げを受けた山林立木でパルプ用材、木炭の生産に従事する等いわゆる山仕事に従事し、農繁期の約三〇日間を自己の農作業に従事して来たものであることが認められ、この認定に反する証拠は存しない(この点につき、被告は、弘一がほぼ〇・九五ヘクタールの田畑を耕作するもので、その収入はいわゆる山仕事等の農業外収入に対する依存度の高い農家の主人であることを自認する。)。

そこで、若狭弘一の過去一年間の収益について考える。

a、木炭およびパルプ用材の生産作業による賃金収入

(1)、≪証拠省略≫によれば、若狭弘一は、昭和四〇年一一月から同四一年五月まで、社団法人福島県木炭協会主催の製炭指導所において、木炭七三三俵(一俵一五瓩)を生産し、その賃金一六万九、二五〇円を得たことが認められる。しかし、≪証拠省略≫によれば、前記製炭指導所は、若狭弘一の居住地である原町市大原地区において昭和三九年・四〇年度に継続して開設されたけれども、その指導員であった原告若狭孫一が、本件事故前の昭和四一年三月三一日退職したため、その指導員がなく、将来ともこれが開設される見込みのないことを認め得るから、前記弘一の賃金収入は恒常性のないものとしてこれを採らない。

(2)、≪証拠省略≫によれば、若狭弘一が、前記期間内にパルプ用材の生産作業に従事して、賃金一万四、九八九円を得たことを認めることができるが、≪証拠省略≫によれば、弘一の住居地である大原地区において今後も継続して前記協会主催のパルプ用材生産指導所が開設される保障のないことを認め得るから、この賃金も弘一の恒常的収入とはいい得ない。

b、木炭およびパルプ用材の売上による収入

≪証拠省略≫を総合すると、若狭弘一は、住居地区の四五戸で構成する原町市大原営林組合に属して、毎年薪炭材として国有林の払い下げを受け、一戸当り約二〇〇石(これを一株という。)の配分を受け、このほか毎年他の組合員の一株を譲り受けて都合二株を木炭とパルプ用材として生産し、これを訴外五十嵐薪炭店、大久保薪炭店、石神農協等に売却して来たものであることが認められ、この認定に反する証拠は存しない。

(1)、①≪証拠省略≫によれば、若狭弘一は昭和四〇年一二月六日、木炭二一俵を訴外五十嵐薪炭店に売却して金七、八七〇円を得たことが認められ、②≪証拠省略≫によれば、同じく昭和四一年四月、木炭三三俵を訴外石神農協に売却して金一万〇、七二五円を得たことが認められる(合計金一万八、五九五円)ところ、≪証拠省略≫によれば、一株の払下代金は大体一万〇、五〇〇円位、一株の譲受代金は、このほかに大体二万円位であることが認められるから二株分につき石当り平均金一〇二円の原木費を要することになり、木炭一俵の原木は〇・四石位を要するものとみて前記五四俵分二一石六斗の原木費二、二〇三円、およびこれ以外の必要経費として原告らの自認する炭焼人夫賃金一、八〇〇円、炭俵費用金一、四五八円の合計金五、四六一円を控除すると、弘一の木炭売上による純益は金一万三、一三四円となる。

(2)、①≪証拠省略≫によれば、弘一が、昭和四一年五月から同年一〇月までの間に、訴外大久保薪炭店に対し、パルプ用材一四九石九斗六升を売却して代金一一万九、三〇八円を得たこと、②≪証拠省略≫によれば、弘一が、同年二月から同年一〇月までの間に訴外五十嵐薪炭店に対し、パルプ用材七七石九斗九升を売却し、その代金八万七、〇六六円を得たこと、③≪証拠省略≫によれば、弘一が昭和四一年一〇月一二日、訴外佐藤林業に対し、パルプ用材七四石七斗余を売却し、代金七万四、一四五円を得たこと(以上合計三〇二石六斗五升余、金二八万〇、五一九円)を認めることができ、原告その余の主張事実はこれを認める証拠がない。そして、その必要経費は、①原木費合計金三万〇、八七〇円、②原告の自認する機械鋸減耗・油代石当り金七五円の割合で合計金二万二、六九八円、③同運賃計金五、六〇〇円の合計金五万九、一六八円であるから、前記売上代金からこの必要経費を控除すると、弘一のパルプ用材売上による純益は、金二二万一、三五一円であること計算上明らかである。

(3)、≪証拠省略≫によれば、国有林払下は、弘一の死亡した後も原告らに対し、配分されていることが認められるけれども、これによって、弘一のいない原告らにとって弘一生存中と同様の収入を期待することは到底できないから、この事実をもって、前記弘一の収入を否定することはできない。

c、山林の植付、下刈作業による賃金収入

(1)、≪証拠省略≫によれば、前記原町市大原営林組合は、国有林、県有林の植林を毎年請け負い、また、市有林は、訴外門馬勝義、林哲男の両名が個人の資格で植林作業を請負い、これを更に前記組合員に請け負わせるものであって、年間延一、〇〇〇人を要するものであること、若狭弘一は、昭和四一年四月から九月までの間に、これら植付作業等に従事して、請求原因第三項(一)5の(ハ)、a、b、cの計金一〇万三、七五〇円の賃金を得たことが認められる。

(2)、≪証拠省略≫を総合すると、弘一は、父原告孫一が、昭和二五年ころ、訴外二谷栄所有の山林を管理した関係で、そのころから継続してこの山林の植付、下刈等の作業に従事して来たもので、昭和四一年七月には、その作業により金六、八〇〇円の賃金を得たことが認められる。

d、農業による収入

≪証拠省略≫によれば、弘一が、自己名義の市・県民税の申告において、農業所得を二〇数万円としていることが認められるけれども、同人は、前記のとおり農繁期の三〇日間位を農作業に従事しているものであるから、同人の農業による収入は、稼働期間の賃金相当額と見るのが相当である。そして、農作業の労働賃金を一日金八〇〇円以上と見ることができるから、同人は年間少くとも金二万四、〇〇〇円以上の収入を得ていたものと認めるのが相当である。

e、右以外の労働による賃金収入

≪証拠省略≫によれば、弘一は、昭和四一年九月中に、原町市内のキッコー食品工業会社で稼働して賃金を得たが、これは、同年にはじめて臨時工として働いたものであることが認められるから、将来とも恒常的に確保し得る収入と見ることはできない。従って、これは、同人の逸失利益の算定基礎とすることはできない。

f、以上合計金三六万九、〇三五円

次に、≪証拠省略≫を総合すると、弘一は、年間の生活費として金一二万円を要したことが認められる。

そうすると、弘一の年間純益は、前記fの金額からこの生活費を控除した金二四万九、〇三五円となるところ、同人が本件事故当時四二年の男子であって、余命二九・一〇年、稼働可能期間二二年であることは当事者間に争いがないから、この純益を基礎として今後二二年間の弘一の得べかりし利益の現価をホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して計算すると金三六三万〇、九五五円となること明らかである。

(二)、原告らの相続

原告若狭フミ、同則雄、同哲夫、同不二男、同恵子と弘一の身分関係は当事者間に争いがなく、原告フミは、弘一の妻として弘一の前記損害合計金三六六万六、九六五円の三分の一である金一二二万二、三二二円、原告則雄、同哲夫、同不二男、同恵子が弘一の実子としてそれぞれ、その六分の一である金六一万一、一六一円の各損害賠償債権を相続によって取得した。

(三)、原告孫一の損害

1  請求原因第三項(二)1の事実(入院医療費金八、一一七円、支払の日は昭和四一年一一月二日)は、≪証拠省略≫により認めることができる。

2  同第三項(二)2のうち、(1)の事実(葬儀費用金二万三、〇六一円、支払の日は同年一〇月二五日)は、≪証拠省略≫により、(2)の事実(火葬場使用料金一、五〇〇円、支払の日は同年一〇月二五日)は、≪証拠省略≫により、(3)の事実(御布施料金一万円、支払日は同日)は、≪証拠省略≫により、(4)の事実(写真引伸代金二、七〇〇円、支払日は同日)は、≪証拠省略≫により、(5)の事実(通夜・会葬清酒代等金四、七〇五円、支払日は同年同月三一日)は≪証拠省略≫により、(6)の事実(追善供養費金一万三、七六五円、最終支払日は同年一一月一三日)は、≪証拠省略≫により、(7)の事実(雑費金六、一八三円、支払日は同年一〇月二五日)は、≪証拠省略≫によりそれぞれ認めることができる。

3  同第三項(二)3のうち、(1)の事実(会葬礼状印刷代金三、八五〇円、支払日は同年同月二六日)は≪証拠省略≫により、(3)の事実(近親者に対する電報代金八四〇円、支払日は同年同月二四日)は、≪証拠省略≫によりこれを認めることができるが、(2)の事実はこれを認めるに足りる証拠がない。

4  同第三項(二)4の事実(交通費金九、一四〇円、支払日は同年一一月一三日)は、≪証拠省略≫によりこれを認めることができる。

5  以上合計金八万三、八六一円

(四)、原告フミの損害

請求原因第三項(三)の事実(損害金九、〇〇〇円、支出の日は昭和四一年一〇月三一日)は、≪証拠省略≫によってこれを認めることができる。

(五)、原告らの慰謝料

1  原告孫一、同との

原告孫一は、弘一の実父であり、原告とのは弘一の実母であることは、当事者間に争いがなく、原告孫一が、昭和四一年三月三一日、福島県原町林業事務所を退職したことは前認定のとおりである。そして、原告孫一が本件事故当時六九年、同とのが六五年であったことは本件記録上明らかで、この原告両名が、弘一に期待するところ大であったことが窺われる。原告若狭フミ本人尋問の結果によれば、原告孫一は、弘一の入院中終始これに付添っていたものであり、原告とのは、本件事故を聞いて驚きの余り病院にかけつけることもできなかったことが認められる。これらの事情からすれば、原告孫一、同とのは、弘一の死亡によって、多大の精神的苦痛を被ったことを容易に窺うことができる。この苦痛に対する慰謝料としては、前記認定の諸事情を考慮すれば、それぞれ金五〇万円と認めるのが相当である。

2  原告フミ

≪証拠省略≫によれば、原告フミは、弘一との間にもうけた原告哲夫(当時一六年)、同不二男(当時一三年)、同恵子(当時一〇年)をかかえ、三七才の身で夫弘一を失い、弘一の入院中は終始これに付添看護したものであることが認められるから、弘一の死亡により、精神上甚大な苦痛を被ったことが窺い得られる。この苦痛に対する慰謝料としては、前記認定の諸事情を考慮にいれて金一〇〇万円と認めるのが相当である。

3  原告則雄、同哲夫、同不二男、同恵子

原告則雄は弘一と先妻ハツ子との間に生まれたもので唯一の肉親である弘一を失い、原告哲夫、同不二男、同恵子は、父弘一を失い、それぞれ、精神上多大の苦痛を被ったことは容易に窺うことができ、この苦痛に対する慰謝料としては、前認定の諸事情を考慮してそれぞれ金五〇万円と認めるのが相当である。

(六)、弁護士費用

請求原因第五項の事実は被告の明らかに争わないところであり、本件事案の難易および前記認容することとした損害額等諸般の事情を考慮すれば、原告らの弁護士費用相当の損害として、被告に賠償させるべき額は、①原告孫一のため手数料金二万四、二〇〇円、謝金五万円、②原告とののため手数料金二万一、〇〇〇円、謝金四万五、〇〇〇円、③原告フミのため手数料金一〇万三、〇〇〇円、謝金二二万円、④原告則雄、同哲夫、同不二男、同恵子のため、それぞれ手数料金五万円、謝金一〇万円と認めるのが相当である。

七、むすび

よって、原告らの本訴請求は、被告に対し、

(一)、原告孫一が、前記第六項(三)、(五)の1および(六)の①の内金五万円の合計金六三万三、八六一円および内金五四万四、二八四円に対する弘一の死亡した日であり現金を支出した日である昭和四一年一〇月二五日から、内金三、八五〇円に対する支出した日である同年同月二六日から、内金四、七〇五円に対する同じく同年同月三一日から、内金八、一一七円に対する同じく同年一一月二日から、内金二万二、九〇五円に対する同じく同年同月一三日から、内金五万円に対する本件判決言渡の日(約定支払日)である昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金

(二)、原告とのが、前記第六項(五)の1、(六)の②の内金五万円の合計金五五万円および内金五〇万円に対する弘一死亡の日である昭和四一年一〇月二五日から、内金五万円に対する本件判決言渡の日(約定支払日)である昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金

(三)、原告フミが、前記第六項(二)、(四)、(五)の2、(六)の③の内金三〇万円の合計金二五三万一、三二二円および内金二二二万二、三二二円に対する弘一死亡の日である昭和四一年一〇月二五日から、内金九、〇〇〇円に対する支出の日である同年一〇月三一日から、内金三〇万円に対する本件判決言渡の日(約定支払日)である昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金

(四)、原告則雄、同哲夫、同不二男、同恵子が各自、前記第六項(二)、(五)の3、(六)の④の合計金一二六万一、一六一円および内金一一一万一、一六一円に対する弘一死亡の日である昭和四一年一〇月二五日から、内金一五万円に対する本件判決言渡の日(約定支払日)である昭和四三年四月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金

の各支払を求める部分に限り理由があるから、いずれもこれを認容し、その余の各請求部分は、いずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条、第九三条第一項本文を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 野沢明)

<以下省略>

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